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手紙と絵文字メール『気持ちを言葉に』

以前、あるテレビ局で『アタックNo.1』が再放送されていた。上戸彩のではなく昔なつかしのスポ魂アニメ。これを見てバレーを始めた、とか、『エースをねらえ!』を見てテニスを始めたとかいう人が多かった世代にはなつかしい番組で、わたしもそんな世代のひとりだ。

画面をみてると、時代背景というか、当時のようすがうかがえる。日本って、こんなにも木々や山々、緑豊かで、安全度の高い国だったんだなぁって。
「人は皆、自分本位にものを言うものだわ。」とは、このドラマの主人公・鮎原こずえのセリフ。バレーに青春を捧げるこずえは、ただ今17才。で、これがその17才のセリフだろうか、と驚かされる。当時の17才は随分と大人だったのだなぁと、自分のころや今の学生を思うにつけ、そう感じる。

そんな青春真っ盛りのこずえが相手に思いを伝えるときの手段となったのは『手紙』だった。この頃はケータイなんて便利な代物は陰も形も?なかったから。
ケータイも絵文字もなかった当時、人は自分の気持ちを言葉にして、それを手紙にしたためて切手を貼ってポストに投函していた。が、時代が進みケータイが誕生すると、思いを伝える手段は一気に手紙からケータイへと移行した。
ケータイとは便利なものだ。そもそも電話だったはずなのに、そこへさまざまな付加機能が搭載されて、むしろそっちの方に重点が置かれつつある。『手紙』に限っていえば、その代わりとなる『メール』機能は、言葉にできない思いを絵文字に託して、簡単に相手に送ってくれて、電話としての機能よりもむしろ便利に使われているんじゃないかと思うほどだ。
便利になったケータイ電話、楽しく使える絵文字の数々。
絵文字を使うことで、言葉にしにくい自分の気持ちをうまく表現すると同時に、メールの文字数を抑えて送信時の負担を軽くしている。

これが、今のデジタル社会の通例でもあるんだろうけど、そんな今だからこそ、その『絵文字』で表す部分(気持ち)を『言葉』(活字)で表現するということが大切なんじゃないかと思う。どういう思いだからハートの絵文字を使うのか、にっこり笑顔の絵文字を使うところを絵文字を使わず活字にするとしたらどんな言葉になるのか、などなど。よく、今の学生たちは語彙が少ないと言われるが、そんなところにも起因しているように思う。"時代の流れ" というひと言で片付けてしまいたくない現実がここにある。

ことばは生き物

「ことばは生きものだ」と、今期再登場した日曜のテレビ番組「平成教育予備校」で言っていたが、ほんとにその通りだと思う。はしょられていくことば、簡略化されていくことば、ことばは常にときとともに変化している。
かつて「新人類」という言葉があった。当時の大人たちから「新人類」といわれて育ったが、今、「新人類」という言葉はもう使われていない。
ことばは、方言も含めて日本のいい文化の一つだ。移ろいゆく時の流れの中で、変わりゆく日本語の中で、変わらず後世に残したいと思う言葉の文化がある。それが「尊敬語と謙譲語」。
今期復活した番組「平成教育予備校」は、その言葉の文化が失われつつある今の世を映し、正そうとするかのごとく始まったようにも思える。
日頃私たちが使っている「話し言葉」からは失われつつある謙譲語と尊敬語を少しだけ以下に列記してみた。

一般語と謙譲語
言う→申す・申し上げる
行く→参る・参ります
思う→存ずる・存じます
食べる→いただく
もらう→いただく
聞く→うかがう
見る→拝見する
あげる→さしあげる
私→小生

ほかに、小社、弊社、粗茶、薄謝、寸志、お待ちする、お知らせする、ご案内する、お願い、ご報告、お電話、など。

一般語と敬語
言う→おっしゃる・お話しになる
行く→いらっしゃる
来る→いらっしゃる・お越しになる・おみえになる・みえる
する→なさる
いる→いらっしゃる
食べる→お召し上がりになる・召し上がる・あがる
見る→ご覧になる

ほかに、○○様、御社、○○先生、部長(部長様とは言わない。例え得意先の部長であっても。)、ご意見、お帰り、御出席、下さる、お書きになる、お詳しい、お休みになる、など。

◯◯的

「アタシ的には別に知らなくてもいいんじゃん、っつーか知る必要ないしねー。でも彼的にはぁ、やっぱ知っとくべきなんじゃんみたいなー。」って・・・

そもそも「的」というのは、性質や傾向を表す接尾語だった。辞書にも出ているが、「○○のような」「○○としての」などの含みをもって「芸術的」「哲学的」「現実的」「病的」「教育的」などのように「それ自体ではないが、それに近い性質やそれに準ずる能力をもったもの」という意味合いで用いていたものだ。それが近頃では「私的には」「仕事的には」などのように、「私は」「仕事は」に近い意味合いで用いられている。「私は」と言いたいなら、ちゃんと「私は」と言えばいいのに何故「私的には」なんだろう。「彼的には」「オレ的には」「先生的には」・・・

最近では年齢を問わず多くの人が使っている、この「的」という言い方だが、ある人の分析によると、これは『名指ししているようで、実は名指しを避けている言い方で、指名する程度をややゆるめた、新しい婉曲表現と考えられる』のだそうで、冒頭の「私的には」というのは「私や私と同じ考えをもつ者としては」という含みになるそうだ。

よく、自分の考えを自分の意見として話さずに一般論として話してしまう人がいるが、この「○○的」という新婉曲表現を使う人もその一人なのかも知れない。「私は、こうだと思う」という意見を、それが少数派である事を恐れてか、「私的にはこうだと思う」や「一般的にはこうだと思う」と当たり障りなく、さも皆がそう考えているかのように言ったりして。

と、かく言う私も、オンタイムで学生が多く見られる会場を盛り上げる為に、また、オフタイムで人との会話を柔らかく楽しくする為にと、この新宴曲表現を使っている一人だったりするのだが、たとえこの新宴曲表現を用いて話す機会が増えたとしても、「私は、こう思う」という自分自身の考えを、一般論にすり替えてしまう事だけは避けたいものだと思う。

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