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不便が悪い?!

友人と洗濯機について論を闘わせていた時のことだった。私が二そう式洗濯機に軍配をあげたら、彼女は「いや、やっぱし洗濯機は全自動やで!二そう式のは不便が悪いからアカンアカン」と言ったのだ。おいおい、ちょっと待て、それはアカンやろぉ!間違ごうてるで! 何がアカンて、二そう式が不便やからアカンのではなくて「不便が悪い」という言葉の使い方がアカンのである。

テレビやラジオなどでもアナウンサー等が、間違いだと知ってか知らずか、よく重複して(ダブって)喋っているのを耳にする。「引き続き野球中継を続行します」「被害をこうむる」「歩いて約1時間ほどの距離」それから「一歩前へ前進」「後ろへバック」「上がりのぼり」まだあるぞ「沿岸沿いの地域」に「一人でひとり言を言う」・・・とにかく言いはじめたらキリがない。

私もナマの仕事をしていると、思わず言ってしまったという事がある。決して良い事ではないが、一件が無事に落着してしまえば、その道中での些細な言い間違いは、言いたい事の真意が聞き手に伝わっていれば、それは言葉の「言い換え」として許されてしまっている。聞き手に喋り手の姿が見えない状況下で(あるいは見えていたとしても)、番組中に声のない、無音の状態が続いてしまうという最悪の事態が発生してしまうことを思えば、少々の言葉違いは「言い換え」として大目にみて貰えることがある。あくまでも少々だ。多少ではない。余談だが、この「多少」という言葉、その意味は文字通り「多いか少ないか」だが、一体どちらの意味で使われることが多いのだろう。勿論、文脈によって変化するのだろうが、ニュアンス的には「少々」とほぼ同局にある言葉で、「多少」の「少」のほうに比重が置かれていて「少々」よりも「少し多い」が「多くはなく少ない」という感じで使われているように思う。因みに所変わって、この「多少」という言葉、中国では「多」のほうに比重がおかれていて、「少々」と対局する言葉なのだそうだ。

話をもとに戻して、結局OKが出てしまうから、後日テープ等を改めて聞き直すこともなくなってしまって、そこからの反省も学習もしなくなる。結果、「言い間違い」を「言い換え」だと勘違いしたままになってしまうわけだ。そうならないためにも極力、後日改めてその「喋り」を聞き直すように心掛けている。聞き直していると、何とも情けない気持ちになってしまう事もあるが。

さて、この、重複した言葉たちだが、あまりにも頻繁に耳にしすぎて一体どこがどう違うんだか、今日では違っていることすら、もう分からなくなってきている。

メディアというのは恐ろしい。

誰かが、「嘘もつき続ければ本当になる」と言っていたが、当たらずとも遠からずといったところだろうか、最初は間違って重複した言葉を使ったのだとしても、使い続けていると、そのうちにその言葉のとこが重複しているのか分からなくなってきて、やがては、重複して喋ってどこが悪いのだ、別にいいじゃないか、ということになりそうで恐い。

だが、幸いにして、まだそこまで変わってはいない。改めて言おう、重複して喋るのは良くない。一つあればいいことが余計にあるのだから。良くないと分かっている人が、例えばウケ狙いで、あえてダブって言うところに「面白さ」があるわけで、そうでない人、例えばアナウンサーなどが、時事ニュース等を聞き手に伝える際に、繰り返して言うのではなく、ダブって喋ってしまうというのはいただけない話で、面白くも何ともない。

「引き続き野球中継を続行します」は「引き続き」と「続行」が重複しているし、「被害をこうむる」は「被害」自体が害を被る(こうむる)ことを意味しているのだから「被害をうけた」とする方がいいだろうし、「約1時間ほど」の「約」と「ほど」は同意語だし、「一歩前へ前進」も、前へ進むことを前進って言うんだからやっぱり重複しているし「後ろへバック」もその類いで、「上がりのぼり」もそれを言うなら「昇り降り」だろう。「沿岸沿いの地域」は一見正しいかのようだが、岸に沿ってることを「沿岸」というわけだから、それにまた「沿い」を付けて「沿岸沿い」とするのはやっぱりおかしい。「海岸沿い」とするべきだろう。それから「一人で一人言を言う」とか言う人がいるけれど、これも、独り言は独りで言うものだから一人で一人言を言うとは言わないだろう。

洗濯機の良し悪しの話は、結局、何が「不便」で、どこをもって「便利が悪い」とするかは、それを使う人によって異なるということで落着し、話題の中心は言葉の重複へと移り、その話に終止した。洗濯機も言葉も、新型が必ずしも良いというわけではないということだ。

ところで、この「重複」、みなさんはどう読まれただろうか。辞書によれば、「じゅうふく」というのは「ちょうふく」の新語形で、一つあればよい物事がよけいに有ることを意味していて、ダブることを言うのだそうだ。因にこの「ダブる」というのを調べてみると、重複の俗語で、狭義では、他の映像と二重になって写ることを指す とある。似た言葉に「サボる」というのがあるが、こちらはフランス語のサボタージュ(sabotage)の俗語で、サボタージュをすることをいい、なまけるという意味だ。それにしても、こんな俗語、一体誰が一番はじめに使い出したのだろう。 ・・・その昔、ブラウン管の向こうの人が、横文字を日本語っぽく「言い換え」て使ったのがはじまりで、それを世の人々が「新鮮」で「面白い」と感じたから、いつの間にか世間一般での話し言葉として定着してしまった・・・私にはそう思えてならない。

難波は「なんば」?

「『難波』? そら『なんば』やろ。」

問えば十中八九の人がこう答える。そうだよなぁ、一般的にはそう読むよなぁ。中に「難波」という名字の方がいらっしゃったが、やはり「なんば」さんだった。でも違うのだ。いや、違わない、大阪ミナミにあるのは確かに「なんば」なのだから。でも、尼崎では違うのだ。

東京の新宿区で「新宿」は「しんじゅく」と読むが、大田区では「しんしゅく」というらしく、「にいじゅく」というのが葛飾区にあるそうだ。他に「あらじゅく」と読む地名が川越市にあると聞く。「新宿」と見ると東京新宿区を連想して「しんじゅく」と読んでしまうが、こんなに色々あるのでは、単に「新宿」と書かれたものを見て、うっかり「しんじゅく」と読んでしまうわけにはいかない。

そういえば、こんなのもあった。「原田」である。前後の文脈を考えずに「原田」と見ただけでこれは人名なのだと決めてかかり、それなら読みは「はらだ」であると思い込む。実際これが人名ならば「はらだ」と読むのが一般的だと思うのだが、もしも地名だったとしたらどうだろう。そんな地名、あるわけないやと思うなかれ。なんと「原田」と書く地名が九州に存在していた。我が国で「原田」というのは「鈴木」さんや「佐藤」さん同様、多い名字のうちの一つにあげられるほど人名として馴染みが深いもの。それだけに、その読みも当然「はらだ」なのか思いきや、さにあらず。確か「はるだ」だったと記憶している。どうりでその地を訪ねるために地元の人に「はらだ」と聞いても通じなかったはずである。

地名や人名の読み方はホントに難しい。ところ変われば読みも変わるが、地元や身近にあることなら自然に身に付いていく。「難波」も尼崎を訪れれば「なにわ」と読むと知る。「五五五」もご近所ならば人名で「ごごもり」さんだと自然にわかる。だが、そうでなければなかなか難しい。

難しい地名や人名などをわざわざストックしておく必要はないと思うが、色んなところから知識として吸収し、仕事での言い間違いを避けるためにも、頭の片隅に置いておいたほうがいいとは思う。仕事において言葉の言い間違いは、時として、伝えたい事(ニュースの内容)そのものよりも強く視聴者の印象に残ってしまうことがあるから。伝えたい事をちゃんと伝える為にも、わからない事や疑問に思った事は、その都度調べるようにしたいものだ。

追記:
東京には「江古田」という町名が中野区と練馬区にあるらしく、中野区では「えごた」、練馬区では「えこだ」と読むのだそうだ。
因みに、わたしのケータイorパソコンでは「えこだ」でも「えごた」でも「江古田」と変換される。

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