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◯◯的

「アタシ的には別に知らなくてもいいんじゃん、っつーか知る必要ないしねー。でも彼的にはぁ、やっぱ知っとくべきなんじゃんみたいなー。」って・・・

そもそも「的」というのは、性質や傾向を表す接尾語だった。辞書にも出ているが、「○○のような」「○○としての」などの含みをもって「芸術的」「哲学的」「現実的」「病的」「教育的」などのように「それ自体ではないが、それに近い性質やそれに準ずる能力をもったもの」という意味合いで用いていたものだ。それが近頃では「私的には」「仕事的には」などのように、「私は」「仕事は」に近い意味合いで用いられている。「私は」と言いたいなら、ちゃんと「私は」と言えばいいのに何故「私的には」なんだろう。「彼的には」「オレ的には」「先生的には」・・・

最近では年齢を問わず多くの人が使っている、この「的」という言い方だが、ある人の分析によると、これは『名指ししているようで、実は名指しを避けている言い方で、指名する程度をややゆるめた、新しい婉曲表現と考えられる』のだそうで、冒頭の「私的には」というのは「私や私と同じ考えをもつ者としては」という含みになるそうだ。

よく、自分の考えを自分の意見として話さずに一般論として話してしまう人がいるが、この「○○的」という新婉曲表現を使う人もその一人なのかも知れない。「私は、こうだと思う」という意見を、それが少数派である事を恐れてか、「私的にはこうだと思う」や「一般的にはこうだと思う」と当たり障りなく、さも皆がそう考えているかのように言ったりして。

と、かく言う私も、オンタイムで学生が多く見られる会場を盛り上げる為に、また、オフタイムで人との会話を柔らかく楽しくする為にと、この新宴曲表現を使っている一人だったりするのだが、たとえこの新宴曲表現を用いて話す機会が増えたとしても、「私は、こう思う」という自分自身の考えを、一般論にすり替えてしまう事だけは避けたいものだと思う。

ファーストフード店にて

「いらっしゃいませ、こんにちはぁ。」
「ご注文のほうはお決まりでしょうか。」
「ご注文のほうは以上でよろしかったでしょうか。」
「お会計のほうはご一緒でよろしかったでしょうか。」
「一万円からでよろしかったでしょうか。」
「一万円からお預かり致します。」

ある日のある新聞に「店員の『よろしかったでしょうか』」という記事が載っていた。それには、「これまでなら『よろしいでしょうか』と言っていたはずなのに、なぜ過去形で問われるのかと違和感を抱く客も多いようだ」とあった。私も、例にもれず、この言い方に違和感を抱く一人で、もう随分前からこの手の受け答えで接客してくるスタッフを鼻につくなぁと感じていた。かつては、こういった言葉使いは勿論のこと、お客さまに返す釣り銭の札の向きにまで気を配るようにと指導されていたものだが。

よそ見したまま、客の入ってくる音に反応して店員の口から「いらっしゃいませ、こんにちはぁ」と発せられた後、勘定を済ませるまで、その口からは「のほう」と「よろしかったでしょうか」が連発される。

注文そのものを聞きたい訳なのだから、何もわざわざ「ご注文のほうは」としなくても「ご注文は」お決まりでしょうか。と率直に聞けばいいのではないだろうか。その後の「よろしかったでしょうか」についても、たった今受けたばかりの注文を、それで間違いないかとうかを確認して言うのだから「よろしかったでしょうか」と過去形にするのではなく「よろしいでしょうか」と現在形で言うべきではないだろうか。会計の段の「ご一緒でよろしかったでしょうか」や「一万円からでよろしかったでしょうか」も然り。

確かに、違和感を抱くし新聞のコラムのように意義を唱えたくもなるが、この、現在のことを過去形で表現する言葉遣いは「確認形」と言われる言い方で、間違いではないのだ。「〜でよろしかったでしょうか」というのは「念のために聞きますが、〜でよろしかったでしょうか」ということで、「よろしいですか」と聞くよりも相手の立場でものを言っていることになる。これは、日本語にはない現在完了形の代用として用いられていて店側の控えめな姿勢を示す、という効果を持っている。その後に続く「一万円からお預かり致します」の「から」については、店員が客に小銭の有無を確認した後で、客が最終的に出した金額に対して言うのだから「一万円から」ではなく「一万円を」お預かり致しますと言うべきだろうけれど。

つまりはこういう事なのだろう。「一万円からお預かり致します。」というのは、「一万円からでよろしかったでしょうか、では一万円をお預かり致します」と言うところを中略してできた形であり、「のほう」については、「方」本来の意味から転じて生まれた婉曲表現をもつ用法で、「ご注文は」「お会計は」と言うよりも「ご注文のほうは」「お会計のほうは」と表現した方が、よりソフトに伝わる効果あるという事で、「よろしかったでしょうか」については先述したとおりである。

自分が何をやろうが勝手だし放っといてくれ、と言わんばかりの世の中でありながら、回りくどいようにも思える言い回しを使って、より柔らかく表現し、相手に接しようとする。稀薄な人間関係ゆえに、敏感になり過ぎてしまっているのか。痩せっぽちで軟弱なのは人々の体型や骨格だけではなさそうだ。

れる語(ら抜き言葉)

「着物を着ること、何て言う?」
「着物を着る。」
「・・・。 ほな、着物を着ることができることは何て言う?」
「着物を着れる。」

確かに通じる。でも、それを言うなら「着られる」だ。〜ができる、英語ならcanを用いるところだが、日本語の場合「着ることができる」ことは「着られる」と言い、「着れる」とは言わない。

「着る」という動詞を活用させて、例えば、打ち消しなどを表す形にすると「着ない」となる。この「着る」を、できるかどうかの可能性を表す言葉にすると、助動詞の「られ」が付いて「着られる」となる。この時、付けるのは「れ」ではなく「られ」だ。打ち消しなどを表す場合には「着られない」となる。

こんなふうに、語形が変化してそれぞれの用法を受け持つことを「活用」といい、活用の形には、「ない」や「ぬ」に続いて打ち消しなどを表す「未然形」、「ます」に続く「連用形」、文の終止などに用いられる「終止形」、主に体言(概念を表す言葉の中で活用の無いもの)に続く「連体形」、「ば」に続いて仮定の意味を表す「仮定形」、命令の意味を表す「命令形」がある。

ところで、動詞って何だろう。助動詞って? 英語の授業で耳にしてた品詞や文法が国語にもあったとは・・・。生まれた時から日本語の中で育った私は、文法なんて外国語の中にだけ存在している特別なものだと思っていた。 動詞とは、事物の動作・存在・状態を表し、言い切る時の形が口語(言語の中で、音声で表現されるもの。話し言葉)では「書く」「着る」のようにウ段の音で終わる言葉のこと。そして、それに付属して叙述の意味を助け補う言葉が助動詞で、例えば「れる」「られる」。なお、動詞の活用の種類には「五段活用」「上一段活用」「下一段活用」「カ行変格活用」「サ行変格活用」があり、助動詞には「受身・尊敬・自発・可能」「使役」「丁寧」「希望」などの活用の種類がある。

「れる」「られる」は、助動詞の活用の種類の中で「受身・尊敬・自発・可能」を表す中にあり、それぞれは動詞に付いて活用される。例の「着る」を「受身・尊敬・自発・可能」を表して活用してみると、

  着・られ・ない
  着・られ・ます
  着・られる
  着・られる・とき
  着・られれ・ば
  着・られよ

となり、付くのは「られる」。ではなぜ「れる」ではないのか。「れる」も「られる」も同じ「受身・尊敬・自発・可能」を表す助動詞だが、その接続の仕方が異なっていて、「れる」は五段活用とサ行変格活用の動詞に付き、「られる」はその他の動詞に付く。「着る」という動詞は上一段活用で後者だから、可能性を表す場合も、尊敬を表す場合も、「着れる」ではなく「着られる」となる。

日頃、語句と語句とをつなげて難無く話している我々だが、そこには、ちゃんと文を作る時の法則「文法」が存在している。それによれば、動詞の活用の種類によって助動詞の活用語尾は変わってくるはずなのだが、今日では、受身や尊敬の場合には「られる」(例、先生が着物を「着られる」)で、自発や可能の場合には「れる」(例、私は着物を「着れる」)というように使い分けされてしまっているように思える。

温故知新である。時とともに変わりゆく言葉だが、古きをたずねた上で、新しい用法に適応していきたいものだ。

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